みなさん、こんにちは。2014年9月のブータンGNHツアーでは、パロ、ティンプー、プナカと訪れました。参加者のみなさんには、全体の感想とともに、各自が関心をもったテーマに沿ってコラムを書いていただきたいという贅沢なリクエストを事務局からさせていただき、とても素敵なコラムが届いています。
今日は、ブータンの織物文化にまなざしを寄せたコラムをお届けします。
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布文化からかいま見たブータン 荒木舞子
これまで何とはなしに興味を持っていたブータンを、2014年秋・ナマケモノ倶楽部のGNHツアーで訪ねることができた。そして初めてのツアー旅行は、私の心配をよそに、共通の興味を持ちつつも違った視点を与えあう豊かなものになった。
ブータンを訪れた私の目を引いたのは、「布」の美しさと豊富さ、多様さ、そして風景全体におけるその存在感。元々「布」や織物の「模様」に興味があったものの、ブータンにおける「布」「織物」の存在感は、日本におけるそれとは比較にならない。この印象は、日本に帰国をして、旅のことを思い出しながら手に入れた端切れなどを見ていた時に強くなってきた。布を巡って考えてみたことを書いてみたい。
ブータンにとっては、織物は大切な伝統文化・工芸の一つ。また産業の少ないブータンにとっては大切な産業の一つでもある。また国民は、法律で公共の場では伝統衣装を着用するよう定められている。残念ながら今回の旅行中、実際に織っているところを目にする機会はなかったが、数が減っているとはいえ、家庭の壁に織機を据え付けて織っている家庭も多くあるようで、今後機会があったらぜひ見たいと思っているところである。
旅の途中に訪れた伝統衣装店では、おそらく機械織りと思われる商品を並べた奥に、衣装以外に、手織りやアンティークの布を売っている一画があった。こちらはより、特徴的な模様だったように記憶している。聞いたところ、生地には、ウールと、木綿、絹がほとんどだそうである。
その他に、ホテルのソファなどではざっくりとした織り目で、毛足が長く、柄も大きい布も見られた。写真はパロで宿泊したHotel Olathanだが、色も模様も大変手がかかっていることに驚きながら思わず撮ったものである。帰って少し調べてみたところ、これはおそらくヤクの毛で織ったヤタという布のようで、ゴやキラといった衣装ではなく丈夫なので日用品に用いられるもののようだ。確かに非常に丈夫そうであった。
ところで、「絹」を取る方法にはブータンの特徴が出ている。日本の養蚕では、蚕が繭を作ったところで繭を煮て生糸を取り出す。しかし信仰心から殺生を良しとしないブータンでは、繭を作った蚕からそのまま糸を取り出す。煮て取りだせば、通常一つの繭からは(蚕がはき続けた)長い一本の糸が取れるが、若干強引に繭から糸を取るので、切れてしまって一本にはならない。この切れ切れの糸を紡いで長い糸にするので、つるりとした糸ではなくこぶのある糸になるのである。
こうした生糸で織った布は野生絹と呼ばれる少し凹凸のある絹の布になり、煮られることのなかった蚕は蛾になって飛び立つ。まさか蚕を殺さずに糸を取りだす方法があるとは、思いもしなかったのでその話はとても印象に残っている。これは人々の仏教への信仰心と織物という文化が、意図せずに独自の糸に生地に結晶しているのである。
こうした写真などを眺めながら、印象に残っている布の「存在感」について考えてみた。ブータンでは建物を伝統的な様式にのっとって建てる必要があるから、もともとの風景と、(コンクリート造りとは言え)伝統的な様式の建物、そうした風景の中に伝統衣装は良くなじんでいる。こうした調和の中で多くの人が伝統衣装を身につけていて、美しい模様、色彩のコントラストが引き立ち印象深いものにしている。さらに伝統衣装はある程度形が決まっているために、細かい柄や模様、色合い、組み合わせに目が行きやすいということもあるのだろうと思う。
また外に目を転ずると、華美でない調和のある生活や、素朴な風景の中にあって、衣装が際立っていたような気もする。先ほどの「風景になじんでいる」、というのと矛盾のような気が自分でもするが、首都ティンプーといえど街並み、家の色合いは比較的素朴であり、衣装や布の美しさや多様さが目に飛び込んでくる。記憶にある風景における「色」の印象の多くは、伝統衣装や布のそれであったような気がする。
とはいえ、必ずしも人々が自ら伝統衣装を身につけているわけではない。現地ガイドの方たちも仕事が終わると洋服に着替えていたし、街中ではハーフキラだけを巻いて上はシャツを着ている女性も多かった。ハーフキラも動きやすいジャージー製だったり、折り返しがない更に簡素な形の中にスパッツを着ていたりする。
こうした状況を見ると法律がなければ民族衣装の着用は速度の差はあれど廃れていくだろう。他の国からブータンに行くことは、調和のとれた景色、信仰に基づいた生活や文化に触れ、一方で経済発展や都市化を見ることで、開発や経済発展により得るものと失うものを目の当たりにし、自分の国について振り返るきっかけを与えるように思う。まとまりはないが、衣装や布を通してそんなことを考えた。
行く前はブータンにおいて「布」や「織物」が重要な位置づけであるとは知らず、旅程に「伝統衣装店を訪ねる」とあるのも(どこのツアーにもあるな・・・)位にしか思っていなかった。が一方で、事前打ち合わせの時に事務局の方が衣装を持ってきてくれて、「ものすごく素敵!」と、がぜんブータンへの期待が増したのも確かである。
民族衣装も購入する予定は全くなかったがつい購入してしまったし、他にも、布の端切れやら、壁かけやら、結局多くの布製品を連れて帰ってきた。背景にある文化を含めて、布を通して始まり、布を通して終わった旅であった。
2014年11月13日
【コラム】布文化からかいま見たブータン
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| 西ブータン
2014年11月05日
熊本あさぎり町より:オーガニック和綿収穫祭!
今、世界中で、コットンが問題になっています。グローバル化されたシステムのなかで、衣の消費型文化は、綿の大量生産を促し、その過程で大量の農薬、除草剤が使われてきました。さらに、近年では効率化のための遺伝子組み換えコットンが登場。なんと流通している95%をも占めています。綿の多様性、地域に根差した綿の栽培、手紡ぎの文化が風前のともしびです。
そんななか、偶然にも、ブータン東部チモン村、そして日本の熊本県あさぎり町須恵で「よみがえるオーガニックコットン」を合言葉に綿花栽培の復活に取り組むプロジェクトが誕生しました。ブータンGNHブログではおなじみのペマさんこと、ブータン・エンシェント・ツアーズ&トレックのペマ・ギャルポさんが今年3月に来日された際にも、あさぎり町を訪問、コットンな交流を繰り広げました。>>レポートを読む。
そのあさぎり町から、収穫祭のレポートが届きました!
● ● ●
熊本県あさぎり町須恵の「和綿の里づくり会」の田中一彦です。
10月28日に須恵で和綿の収穫祭がありました。僕も福岡から駆け付け、夜の打ち上げまで楽しく充実した1日でした。
15アールの畑に、須恵小学校の全児童(57人)と先生、老人クラブ、精神、身体障害施設、老人ホーム、綿を糸から製品化まで引き受けてくれる 縫製工場「マインド熊本」(本社は岐阜)、畑を無償提供した個人らの「和綿の里づくり会」のメンバー、それに賛同した農業高校の女子生徒、身体障 害者のために電動の綿繰機を開発した工業高校の男子生徒ら、総勢170人というすごい収穫祭になりました。
去年の初回は栽培に失敗して、収穫はたったの2・8キロでしたが、今回は24・4キロ。7キロの事前収穫があるので計31・4キロと10倍以上。
団体別では、20人参加の老人クラブと「つつじヶ丘学園」という障害施設が各5・5キロと頑張りました。さすがお年寄りは働き者ですね。年明けまで2週間に1回程度収穫して、目標は100キロということです。
収穫もうまくいきましたが、和綿の里づくり会も順調に成長しています。種まきから除草、収穫まで参加がだんだん増えていますが、基本は「スロー、スモール、サスティナブル」。
それに、人と人、人と自然のつながりが薄れる現代において、須恵独特の言葉である支え合いを意味する「はじあい」と、昔の共同労働「結い」を表す「かちゃあ」を、もう一度紡ぎ直そうという理念も、身の丈に合った活動を、というスタンスも変わりません。
自由に加わった参加団体が老若男女、健常者障害者、異業種と、会の構成が恐らく全国どこにもないユニークなことと、現在のところ補助金に頼らず手弁当の活動という方針は、会のメンバー全員が共有し続けています。
今、須恵あるいはあさぎりブランドとして販売する方向で、ブランド名を公募中です。製品は、これも地元で栽培する紫紺を使ったものを開発中です。乞うご期待!
それに、11月2日に出発したナマケモノ倶楽部のブータン東部ツアー訪問一行に、須恵の和綿の活動と、ブータンと須恵がそっくりの写真を使ったアルバムを運んでもらいます。今年3月に須恵で開いたペマとの交流を継続したいとの願いです。
各地の活動とも連動して続けていければと思っていますので、収穫の報告、よろしくお願いします!
そんななか、偶然にも、ブータン東部チモン村、そして日本の熊本県あさぎり町須恵で「よみがえるオーガニックコットン」を合言葉に綿花栽培の復活に取り組むプロジェクトが誕生しました。ブータンGNHブログではおなじみのペマさんこと、ブータン・エンシェント・ツアーズ&トレックのペマ・ギャルポさんが今年3月に来日された際にも、あさぎり町を訪問、コットンな交流を繰り広げました。>>レポートを読む。
そのあさぎり町から、収穫祭のレポートが届きました!
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熊本県あさぎり町須恵の「和綿の里づくり会」の田中一彦です。
10月28日に須恵で和綿の収穫祭がありました。僕も福岡から駆け付け、夜の打ち上げまで楽しく充実した1日でした。
15アールの畑に、須恵小学校の全児童(57人)と先生、老人クラブ、精神、身体障害施設、老人ホーム、綿を糸から製品化まで引き受けてくれる 縫製工場「マインド熊本」(本社は岐阜)、畑を無償提供した個人らの「和綿の里づくり会」のメンバー、それに賛同した農業高校の女子生徒、身体障 害者のために電動の綿繰機を開発した工業高校の男子生徒ら、総勢170人というすごい収穫祭になりました。
去年の初回は栽培に失敗して、収穫はたったの2・8キロでしたが、今回は24・4キロ。7キロの事前収穫があるので計31・4キロと10倍以上。
団体別では、20人参加の老人クラブと「つつじヶ丘学園」という障害施設が各5・5キロと頑張りました。さすがお年寄りは働き者ですね。年明けまで2週間に1回程度収穫して、目標は100キロということです。
収穫もうまくいきましたが、和綿の里づくり会も順調に成長しています。種まきから除草、収穫まで参加がだんだん増えていますが、基本は「スロー、スモール、サスティナブル」。
それに、人と人、人と自然のつながりが薄れる現代において、須恵独特の言葉である支え合いを意味する「はじあい」と、昔の共同労働「結い」を表す「かちゃあ」を、もう一度紡ぎ直そうという理念も、身の丈に合った活動を、というスタンスも変わりません。
自由に加わった参加団体が老若男女、健常者障害者、異業種と、会の構成が恐らく全国どこにもないユニークなことと、現在のところ補助金に頼らず手弁当の活動という方針は、会のメンバー全員が共有し続けています。
今、須恵あるいはあさぎりブランドとして販売する方向で、ブランド名を公募中です。製品は、これも地元で栽培する紫紺を使ったものを開発中です。乞うご期待!
それに、11月2日に出発したナマケモノ倶楽部のブータン東部ツアー訪問一行に、須恵の和綿の活動と、ブータンと須恵がそっくりの写真を使ったアルバムを運んでもらいます。今年3月に須恵で開いたペマとの交流を継続したいとの願いです。
各地の活動とも連動して続けていければと思っていますので、収穫の報告、よろしくお願いします!
posted by GNH at 09:00| Comment(0)
| コットン・レボリューション(日本)
2014年11月01日
【コラム】プナカ、ドチョカ村の民家から
ナマケモノ倶楽部がプロデュースするGNHツアーは、年齢、職業、お住まいがに多様性があるのが特徴。多様ななかでも「スロー」という大きなビジョンは共通しているので、初対面の旅でも話がはずみます。
そして、もうひとつの財産は、ツアーに参加したみなさんが、ご自身の得意分野でもって、自分が見聞きしてきたGNH的なモノ・コトを消化し、それをシェアしてくださること。
今回のツアーには、ナマケモノ倶楽部世話人で、建築家の大岩剛一さんが参加。ドチュカ村のホームステイでは、GNHツアー初!の測量を実施。素敵なコラムと共に送ってくださったのでご紹介します!
============
プナカ、ドチョカ村の民家から
大岩剛一(建築家、ナマケモノ倶楽部世話人)
水の村
要衝プナカ・ゾンの西を流れるモ・チュを北北西に10kmほど遡った谷の北岸。刈り取り前の棚田が、背後を縁どる森の際からなだらかな緑の階段となって蛇行する川辺に落ちている。二つの棚田の縁に点在する30戸ほどの白い民家。左手の山の頂にのぞく仏塔。静けさと神々しさを湛えた、ドチョカ村の集落だ。
村の暮らしを支えているのはヒマラヤ山脈がもたらす豊富な水だ。田を潤し、飲み水を供給し、地域分散型の小規模水力発電が生活に必要なすべての電気をまかなう。棚田には山の湧水を引いて作った用水路が走っている。所有者の異なる無数の田んぼに地形の落差を利用して水を平等に分配し、一部は家に引き込み、最後は川に戻す。ここには一本の水路でつながった暮らしがある。取水をめぐる素朴な技術と豊かな知恵、そして水を汚すまいと上の家が下の家のことを思いやる、命の水を守る心がある。
風の谷の小ラカン
白い土壁と赤茶色の木でできたドチョカ村の民家は美しい。繊細さと力強さをあわせ持つ、豪壮で気品のある外観。大工技術の確かさを感じさせる装飾の数々。ブータンの住まいは、まるで小さなラカン(寺)のようだ。
ブータンでは色彩のもつ意味は極めて重要だ。黄、白、赤、青、緑の五色は宇宙を構成する五つの要素、つまり空気、風、火、水、大地を意味するからだ。ぼくが泊まった家では一階が煮炊きと食事、団欒のための部屋、二階は祭壇のある仏間(チョシャム)と寝室になっていた。
特に南面する二階の三つの部屋の内部は、寺院と見まがうほどの極彩色に塗られた木組の装飾と壁絵に埋め尽くされ、濃密な曼陀羅的世界を形成している。壁も天井も五色を基調にして塗り分けられ、火灯(かとう)窓のある薄い土壁が、三室とも出窓のように外にせり出す。外観が寺院のように見えるのは、長く突き出た深い軒と、三方にせり出したこの壁(窓)のせいに違いない。
日中は谷底から強い南風が吹き上げ、夜間は背後の山から北風が吹き下ろす。だからドチョカ村の民家の外周壁は、蓄熱性に優れた版築(はんちく)工法の厚い土壁でできている。土をコンクリートのように型枠の中に入れ、上から棒で突いて固める工法だ。泊まった家では息子が手作りの日干煉瓦を積んで家畜小屋の壁を改修していた。木、土、石、そして壁下地や仮囲いに使う竹。トタン屋根を除けば建材はすべて村の近くで調達できる。
点在する家々はどれも正面が谷に向いている。重厚な版築壁の上には、木の束(つか)で持ち上げた傾斜のゆるい何層かの切妻屋根が載り、谷から吹き上げる風が切り離された屋根と屋根の隙間を通り抜ける。風通しのよい屋根裏には燃料の薪や穀物等の食糧が貯蔵され、棟の上ではグンダと呼ばれる一本の小旗がはためく。
大地とつながる家
眼下にモ・チュの流れを望む民家の庭先。無数の経文を刷り込んだダルシンの旗竿と木の枝に渡された5色のルンタが、祈りを乗せた風を受けて揺らいでいる。ここは神の土地。神の恵みを分けてもらって生きる人々の住まい。太陽と風と水と土によってあらゆる自然と結ばれた人々の、それは大いなる大地への祈りの風景だ。
今回のブータン西部への旅で、この50年間に私たちの住まいが失ってきたものの大きさを思い知らされた。量産化された住宅。素性のわからない建材。地域とは何の関係もない均質でのっぺりとした町。私たちの周りには、コスモロジー(宇宙観)を喪失したそんな茫漠たる住の風景が広がっている。日本の住文化の貧しさとは、つまるところ自然とのつながりを失い、大地への祈りを忘れた私たち自身の姿ではないのか。
近年、グローバル化の波を受けて変貌するブータン。だが人々の暮らしと住まいは、私たちがいつの間にか忘れ、失ってきたものをたくさん思い出させてくれる。大地と、自然とつながり直すことなしにはつくれない、懐かしい未来の風景を見せてくれる。
>>2014年ブータンGNHツアー・秋。6泊8日のツアー概要はこちら。
そして、もうひとつの財産は、ツアーに参加したみなさんが、ご自身の得意分野でもって、自分が見聞きしてきたGNH的なモノ・コトを消化し、それをシェアしてくださること。
今回のツアーには、ナマケモノ倶楽部世話人で、建築家の大岩剛一さんが参加。ドチュカ村のホームステイでは、GNHツアー初!の測量を実施。素敵なコラムと共に送ってくださったのでご紹介します!
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プナカ、ドチョカ村の民家から
大岩剛一(建築家、ナマケモノ倶楽部世話人)
水の村
<ドチョカ村全景。手前がモ・チュ>
要衝プナカ・ゾンの西を流れるモ・チュを北北西に10kmほど遡った谷の北岸。刈り取り前の棚田が、背後を縁どる森の際からなだらかな緑の階段となって蛇行する川辺に落ちている。二つの棚田の縁に点在する30戸ほどの白い民家。左手の山の頂にのぞく仏塔。静けさと神々しさを湛えた、ドチョカ村の集落だ。
村の暮らしを支えているのはヒマラヤ山脈がもたらす豊富な水だ。田を潤し、飲み水を供給し、地域分散型の小規模水力発電が生活に必要なすべての電気をまかなう。棚田には山の湧水を引いて作った用水路が走っている。所有者の異なる無数の田んぼに地形の落差を利用して水を平等に分配し、一部は家に引き込み、最後は川に戻す。ここには一本の水路でつながった暮らしがある。取水をめぐる素朴な技術と豊かな知恵、そして水を汚すまいと上の家が下の家のことを思いやる、命の水を守る心がある。
風の谷の小ラカン
<ラカンのようなTさんの家の外観。
厚い版築壁からせり出す火灯窓のある2階の壁>
厚い版築壁からせり出す火灯窓のある2階の壁>
白い土壁と赤茶色の木でできたドチョカ村の民家は美しい。繊細さと力強さをあわせ持つ、豪壮で気品のある外観。大工技術の確かさを感じさせる装飾の数々。ブータンの住まいは、まるで小さなラカン(寺)のようだ。
ブータンでは色彩のもつ意味は極めて重要だ。黄、白、赤、青、緑の五色は宇宙を構成する五つの要素、つまり空気、風、火、水、大地を意味するからだ。ぼくが泊まった家では一階が煮炊きと食事、団欒のための部屋、二階は祭壇のある仏間(チョシャム)と寝室になっていた。
特に南面する二階の三つの部屋の内部は、寺院と見まがうほどの極彩色に塗られた木組の装飾と壁絵に埋め尽くされ、濃密な曼陀羅的世界を形成している。壁も天井も五色を基調にして塗り分けられ、火灯(かとう)窓のある薄い土壁が、三室とも出窓のように外にせり出す。外観が寺院のように見えるのは、長く突き出た深い軒と、三方にせり出したこの壁(窓)のせいに違いない。
<Tさんの家の仏間と祭壇>
日中は谷底から強い南風が吹き上げ、夜間は背後の山から北風が吹き下ろす。だからドチョカ村の民家の外周壁は、蓄熱性に優れた版築(はんちく)工法の厚い土壁でできている。土をコンクリートのように型枠の中に入れ、上から棒で突いて固める工法だ。泊まった家では息子が手作りの日干煉瓦を積んで家畜小屋の壁を改修していた。木、土、石、そして壁下地や仮囲いに使う竹。トタン屋根を除けば建材はすべて村の近くで調達できる。
点在する家々はどれも正面が谷に向いている。重厚な版築壁の上には、木の束(つか)で持ち上げた傾斜のゆるい何層かの切妻屋根が載り、谷から吹き上げる風が切り離された屋根と屋根の隙間を通り抜ける。風通しのよい屋根裏には燃料の薪や穀物等の食糧が貯蔵され、棟の上ではグンダと呼ばれる一本の小旗がはためく。
大地とつながる家
<庭先のダルシンとルンタ。眼下にモ・チュの流れを望む>
眼下にモ・チュの流れを望む民家の庭先。無数の経文を刷り込んだダルシンの旗竿と木の枝に渡された5色のルンタが、祈りを乗せた風を受けて揺らいでいる。ここは神の土地。神の恵みを分けてもらって生きる人々の住まい。太陽と風と水と土によってあらゆる自然と結ばれた人々の、それは大いなる大地への祈りの風景だ。
今回のブータン西部への旅で、この50年間に私たちの住まいが失ってきたものの大きさを思い知らされた。量産化された住宅。素性のわからない建材。地域とは何の関係もない均質でのっぺりとした町。私たちの周りには、コスモロジー(宇宙観)を喪失したそんな茫漠たる住の風景が広がっている。日本の住文化の貧しさとは、つまるところ自然とのつながりを失い、大地への祈りを忘れた私たち自身の姿ではないのか。
近年、グローバル化の波を受けて変貌するブータン。だが人々の暮らしと住まいは、私たちがいつの間にか忘れ、失ってきたものをたくさん思い出させてくれる。大地と、自然とつながり直すことなしにはつくれない、懐かしい未来の風景を見せてくれる。
>>2014年ブータンGNHツアー・秋。6泊8日のツアー概要はこちら。
posted by GNH at 15:50| Comment(0)
| 西ブータン